深谷の郷土文化のご案内


by nakazeriver

説経浄瑠璃

 9月11日大寄公民館にて
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浄瑠璃姫と 薬師如来の東方浄瑠璃世界
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東京都板橋区無形文化財指定説経浄瑠璃家元 三代目若松若太夫師匠 により


 説経浄瑠璃の会が 催された。

80人の参加を得て盛会のうちに終わった。


説経浄瑠璃は平安時代貴族の間で広まった。

鎌倉時代には時宗の僧により 戦国の武士や一般民衆に浸透した。

室町の中ごろからササラ,鉦、続いて琉球三味線が取り入れられた。

この音楽性により 一層 民衆に受け入れられることになった。。



本物の浄瑠璃を聞けて感激したという人が多かった。



もともと中瀬を中心に2代目が公演活動をしていた。戦前戦後の時期に中瀬の有力者や寺が支援してきた。



渋沢栄一も初代が帝国劇場で旗揚げの際後援会筆頭に名を連ね支援援助をしていた。

明治初期には日本橋人形町の芝居小屋や人形浄瑠璃が上演される劇場に千代夫人 歌子としばしば観劇に
出かけた。



日本橋人形町3丁目あたりには歌舞伎小屋の中村屋や市村座があった。
また薩摩浄瑠璃(薩摩座)や人形芝居(結城座)などもがあった。
人形使いが多く住んでいたことから人形町となずけられたと言われている。


江戸時代においてはこの通りには大阪町、堺町、住吉町,和泉町などの町名があつたがこれらの町が人形町という町名に変更された。

江戸時代初期には遊郭で 有名な元吉原がこの地にあった。水天宮も人形町交差点に鎮座していてお参りの
人々が絶えない。

大門通りはこの名残である。
明暦の大火(振袖火事)を機に幕府の名で遊郭は浅草寺裏の日本堤付近に移転した。

栄一 千代夫人は義太夫や浄瑠璃が大好きであつた。人形町によく出かけた。
飲食店なども多く 軍鶏料理、親子丼の玉秀、すき焼きしゃぶしゃぶの今半本店、たい焼き発祥の店柳谷、
 甘酒横丁もあり賑わいを呈している。


栄一は若いとき中瀬の桃井の塾に学び 漢籍やや水戸学を修めている。

中瀬には常設の芝居小屋があったといわれている。
船運で栄え賑わった中瀬は江戸か中瀬か  中瀬か江戸かといわれていた。

中瀬は河岸場を中心に裕福な経済圏を形成し寺を中心に文化人や教養人も多かった。


  三代目若松若太夫

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by nakazeriver | 2012-09-12 05:57